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《戊辰战争全史》日文网站

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发表于 2011-5-14 11:36:11 | 显示全部楼层 |阅读模式
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扨も阪軍は正月二日大河内正質朝臣を総督とし、若年寄並塚原昌義(但馬守)を副とし、わが藩兵は田中隊、上田隊、生駒隊、堀隊、大砲隊二組、別選組、諸生隊並びに我が藩に附属せる新選組にて、桑名、大垣、浜田、高松、鳥羽の諸藩兵にして水陸並び進み淀に至る。
 明くれば三日大目付滝川具挙は慶喜公の薩摩弾劾の上奏書を持し、佐々木忠三郎が率いたる見廻組に護衛せられ、鳥羽街道より進んで上鳥羽に至る。然るにその時先駆は四塚の関門に至れるが、関門を守れる薩兵拒んで入れず。応接数回に及びたるも守兵固く執って応ぜず。
 具挙止むを得ず淀に向って退却す。この街道を進み来れる阪軍は大久保忠恕が兵を主力とし、桑名兵を先鋒とし、新選組、大垣兵等之に属す。具挙はこの大部隊と共に再度京都に向ふ。
 この時薩兵は上鳥羽まで進軍せるに、見廻組の士をして徳川内府上奏のため上京する旨にて再三交渉せしも、薩兵応ずる色なく、ついに申の下刻頃に至り薩兵より発砲す。
 是ぞ戊辰戦乱の第一砲声なりき。 鳥羽伏見
開戦  申の刻(午後四時)に至り正質重固漸く来り進軍の命を下す。何ぞその来るの遅きや、戦機既に逸し将卒の意気振はざること亦甚だし。
 鳥羽街道の前衛漸く進んで中の橋に至れば、守兵関門を閉ざして入れず、曰く、
「我らは朝命を奉じてここを守る。武装する者は通行を許さず」
 と。東軍答えて曰く、
「前将軍朝命により参内せんとす。我等その前衛なり。開門すべし」
 然らば朝命を請はん、暫時控へらるべしと。東軍兵を駐めて待つ。待つ者晏如たり、待たるゝもの益々兵備を整ふ。
 其の兵備整ふや俄然砲門を開きて東軍を迎ふ、東軍大いに驚き且怒り周章之に応ず。憤慨骨に徹すと雖も、既に機先を制せらる。縦令一挙に之を撃破せんと焦るも及ばず、薩長の精兵銃砲を発してさかんに逆襲し来る。砲煙濛々天地を蓋ひ、山岳為に震ふ。
 五日の日に慶喜公が激励の台命を発したる後、東下の思ひむらむらと起りし處に、その深夜神保修理が東下の入説に彌々心を決したるも、我が公及び定敬朝臣には勿論、幕臣中気概ある者には固く秘せられけり。只勝静朝臣と永井尚志とに東下のことをほのめかされしに、二人は東帰再挙のことと信じて賛成したりと云ふ。
 出発間際に至り、我が公に東下陪従の命あり。東下のことをこの時まで我が公に秘せられしは、我が公は勿論、我が藩士が極諫せんことを恐れてなり。
 我が公、東下のことを聞き、その不可なる理由を縷陳すれども、智は以て諫を禦ぐに足るべき慶喜公なれば、何条我が公の諌を入る可き、果ては憤怒して陪従東下を厳命するに至れり。
 我が公、今は止むを得ず、その愛撫我が将士を捨てて涙を呑んで東下に陪従せり。
 (中略)
 丑の刻(午前二時)修理、(浅羽)忠之助を招きて曰く、大刀を携え来れと。共に御用部屋の口に至る。修理曰く、内府公東下せんとし我が公も亦陪従に決すと。忠之助驚きて曰く何故ぞや。修理曰く、故あり家老神保内蔵助、上田学太輔及び子と余とを従うとの命なり、然れども事極めて機密なり、必ず漏洩すること勿れと。 徳川慶喜の
東帰  慶喜、時に大阪城に在り、前進部隊の消息を待って上京せんとす。偶々鳥羽伏見に戦闘起り、形勢我に非なるを知り海路東帰の意あり、密かに松平大隈守に命じ、八軒屋より出帆せしめんとす。大隈守直ちに城門を出づ。
 時に会藩士神保修理、伏見の戦況を視察し、その状況を報ず、且つ曰く、
「前将軍既に政権を奉還し、軍職を拝辞せられたるは、一に天地の公道に従い勤王の至誠に出づ。然るに今や実権なく責任なくして大兵を擁し、君側を清めんと計るは、其の名分正しからざるのみならず、其の理拠また純ならず。是れむしろ前将軍の精神に反す」
 と謹慎命を待つの得策なるを苦諫す。
 然れども城中の激昂甚だしく、皆進撃を絶叫して之を容れず。
 修理又慶喜に面し、大いに順逆を説き、利害を論じて直諫す。慶喜亦敗報しきりに至るを見て大いに驚き、
「藤堂の如き、稲葉の如きは、皆当家に重恩あり。特にこの挙に賛して反覆かくの如し。これもとより錦旗の出動に由るべしと雖も、人心の恃むべからざること、亦以て見るべきなり。そもそも今回戦端を開けるもの、彼れに在りて、我に在らず。内に顧みて毫も疚しからざるも、天朝尊奉の素志に背くを遺憾とす」
 と愈々去意を決し、命を諸軍に伝えて大阪城に退かしむ。
 (中略)
 会桑の諸隊大阪城に退くや、大阪城の形勝に拠って東西佐幕の諸侯に檄し、江戸と相策応して薩長と争はんとす。然るに慶喜、事の成らざるを知り、会桑両藩主及板倉勝静を随へ、倉皇大阪城を棄て、安治川口より兵庫に出で海路江戸に還る。
 二月十三日、我が藩神保修理を三田邸に檻送し死を賜ふ。
 是より先、修理は慶喜公及び我が公、定敬朝臣の後を追ひ、浅羽忠之助と共に道を東海道に取り江戸に下る。我が将士、修理が大阪城中に在らざるを見て罵りて曰く、内府公の我が公及び桑名公等を要し、全軍を捨てて窃に東下せらるゝは是修理が上言を信じてならん、故に彼も亦遁る。顧ふに修理は西藩の人士に相識多ければ、西軍に通じたるも亦知るべからず。早く之を斬らざりしを恨むと。
 修理は開陽艦に後るゝこと三日にして江戸に帰る。
 (中略)
 後我が将士等の大阪より江戸に帰るに及び彌々沸騰し、我が公及び藩相に迫りて曰く、伏見戦争の兵機を阻害し、今日に至らしめたるは皆彼が罪なり、彼の奸賊を誅戮せざるべからずと。過激の壮士相共に修理を刺さんとするに至る。
 我が公は修理が其の害に遭はんことを慮りて、国に帰るを止め、和田倉邸に幽囚す。
 時に勝安房之を聞き、其の禍に罹らんことを察し、慶喜公に告げ、公命を以て修理を召さんとするや、壮士等この事を聞き更に紛擾し、その処決を促して止まず。
 修理亦幽室中より屡々書を呈して審問を求むれども省せられず、この日を以て三田邸に檻送せられ、遂に死を賜ふ。
 死に臨みて従容左右を顧みて曰く、余固より罪なし、然れども君命を奉ずるは臣の分なりと。剣に伏して斃る。 神保修理の
死  ・・・・・・伏見鳥羽の敗兵数十隊、陸続江戸に帰り、恭順の説を聞き憤慨禁ずる能はず。
 ことに会藩士にして神保修理の帰府しあるを知るや、家老に迫り、容保に請ひ、修理をして屠腹せしめんとす。
 初め修理の帰府するや、勝義邦に謀り、善後策を案じつゝありしが、藩士の激昂止まざるを以て、遂に藩命を以て死を賜ふ。修理一絶を義邦に贈り、従容死に就く。時に二月十二日なり。

(中略)

 ・・・・・・修理、東軍の鳥羽伏見に敗るゝや、大勢に鑑み、従来首鼠両端を抱きし各藩の向背之によって定まらば、東軍の勝算固より期し難きを察し、密かに慶喜公に大阪退去を上言し、為に東軍の作戦に大蹉跌を来したるものとなし、壮士等の憤りを迫る所となり、遂に自刃せしは一に天下の大勢に通曉せしが如しと雖も、闔藩の決心を知るの明なかりしが如し。惜むべき材幹を抱き、空しく斃れたる彼は誠に痛むべし・・・・・・
 二月十五日、我が公、京帥、伏見、鳥羽、淀、八幡に戦ひたる兵士及び仏蘭西兵式練習を命ぜられたる隊士を、和田倉邸内馬場に召見す。
(中略)
 我が公自ら臨みて曰く、曩日汝等の奮戦感稱するに堪へず。然るに内府公俄に東下せらる。予は其の前途を憂ひ、公に従って東下したり。之を全隊に告げざりしは、予大に之を慚づ。
 家を喜徳に譲り、必ず恢復せざるべからず。汝ら皆一致勉励して能く之を輔けよ。予篤く汝等に依頼すと。
 隊士皆叩頭感泣す。
 既にして酒を賜うて曰く、時春寒に属す、宜しく過飲すべしと。隊士感喜す。 容保の謝罪  記載なし。
 二月十六日、我が公は和田倉邸を発し、会津に帰る。扈従する者下記の如し。

 先備 頭 千葉権助
           甲士十六人

 而して砲兵隊は千住まで扈従す。 容保の帰国  前将軍徳川慶喜江戸に帰り恭順に決するや、容保亦会津に帰りて誠意恭順の意を表す。時に戊辰二月なり。
 ・・・・・・近藤、土方は隊士若干を収め又他に兵を募り、下総流山に陣す。
 時に東山道の西軍本営板橋に在りたるが、彦根・須坂等の兵に命じて之を討たしむ。西兵越ヶ谷より兵を潜めて俄に流山を襲ふ。新選組遂に敗れ勇捕へられ、四月二十五日、北豊島郡板橋に於て斬らる。
 勇、死に臨み神色変ぜず従容として刃を受く。時に年三十五、次いで首を京都に送り、三條河原に梟す。
(中略)
 ・・・・・・捕虜を殺すは当時の慣習なれば咎む可からざるも、勝沼・流山を犯罪地とし之を勝沼・流山若くは板橋に梟せずして、京都に梟したるは、京都を以て犯罪地としたるを証するなり。
 勇が京都に於ける行動は適法の命令によるものにして、罪迹と云ふ可からざるは今更論ずる迄もなきことなり。彼等は名を懲罰に藉り、実は其の私怨を報せしに過ぎず。 近藤勇の
刑死  時に近藤勇、姓名を変じて大久保大和と称し、流山に在りしが、西軍の包囲する所となり、事を挙げ得ざるを以て名を脱走兵の鎮撫に藉り、自ら弁明する所あらんとし、西軍の本営に至る。
 西軍之を板橋の本陣に送る。
 然るに薩軍中勇を知るものあり、策為に破れて縛に就き、遂に首を斬り京都四条磧に梟さる。時に年三十五。
 一座、之(「奥羽皆敵」「弱国二藩恐るゝに足らず」と記した世良修三から大山格之助宛の書簡)を覧て大いに怒って曰く、彼れ何者ぞ、苟も鎮撫総督府の参謀ならずや。然るに其の為す所一も公明正大ならず、欺きて会津の嘆願書を納るゝを名とし、各所の胸壁を毀たしめ、殊に奥羽を皆敵と見做し、酒田沖に軍艦を回航し挟撃の策を運らさんとす。これ堂々たる王帥の為すべきことにあらず。夫れ降る者は容れ抗する者は討つは応懲の本旨にあらずや。
(中略)
 要するに是れ名を王帥に假りて暴威を逞うし、以て私怨を霽らさんとする姦賊のみ。
(中略)
 この夜福島藩においては、福島町第一の青楼に盛宴を張り、辞を卑うして修蔵を招きたれば、修蔵大に悦び意気揚々として来り臨む。美酒佳肴を陳ね、美妓席に侍し、歓待至らざる所なし。
 夜半に至り、修蔵狎妓と共に楼上の一室に寝に就く。
 (姉歯)武之進等好時期なるを告ぐ。
 (瀬上)主膳乃ち福島町の探偵浅野宇一郎を呼び命じて曰く、将に修蔵を捕へんとす、故に之を助けて遺算なきを期せよと。
 福島藩遠藤條之助、杉澤覚右衛門、仙台藩姉歯武之進、田辺覧吉、赤坂孝太夫、松川豊之進、末永縫殿之丞、岩崎秀三郎、小島勇記、大槻定之進等は、浅野宇一郎及び之に属する部下を率いて、子の刻(深夜十二時)修蔵が宿せる青楼に至り其の部署を定め、條之助、孝太夫は修蔵が寝室に侵入す。
 修蔵大に狼狽し、短銃を執って発射せんとしたるも銃丸発せず、衆躍り進みて之を捕ふ。
(中略)
 修蔵を主膳が宿せる浅野宇一郎が家に引到し、勇記、武之進は押収せる密書を修蔵に示して之を詰問す。修蔵辞窮して答ふること能はず、自ら其の罪に服す。
 翌二十日黎明、修蔵が罪状を数へ之を須川の磧に斬る。
(中略)
 尋いで主膳は、修蔵の首を白石の本営に送致す。 世良修蔵を
斬る  瀬上主膳、これ(「奥羽皆敵」「弱国二藩恐るゝに足らず」と記した世良修三から大山格之助宛の書簡)を見るや、怒り心頭に発し、速やかに国家の蠧毒を除かんと欲し、密かに世良修蔵及び勝見善太郎捕縛の準備を整へ、姉歯武之進自らこれに当り、遂に福島北町の妓楼に於て善太郎を斬り、修蔵を捕えて其の凶暴を数へ、其の翌二十日未明、之を斬って首を白石城外月心院に埋む。時に年三十四。

 この時、修蔵北町の妓楼金澤宇一郎方に滞在す。宇一郎は博徒の親方にして侠気あり。瀬上主膳予め之と約し、修蔵の敵娼(あいかた)にも旨を含めて乱酔せしむ。
 時恰も五月雨の節にして、敵娼の好遇に現を抜かしたる彼は、遂に征旅の憂さも忘れ、歓楽狂舞の末、裸踊りをなすに至る。
 この間、敵娼は彼の佩刀を他に移せりといふ。蓋し修蔵の剛敵なりしを知り、この挙に出でたるが如し。
 三月十日、軍制を改革し、其の編成を定む。
 (中略)・・・時勢の変遷に伴ひ、幕府及び列藩皆競うて軍制を洋式に変更せり。我が藩も亦之に倣うて訓練を為せり。然れども未だ全然西洋式と為すに至らざりしが、會々伏見・鳥羽の経験に依って従前戦法の不利を認め、ここに於て改革を断行するに至れり。

 伏見・鳥羽戦の時、我が兵中鉄砲を持せざるもの甚だ多し。別選組の如き善く戦ひたれども鉄砲を持せるもの極めて少し。故に接戦に至るまでは戦を観望するのみなりき。
 又番頭隊には六十の老翁も十五六の少年もあるが故に、全隊の歩調を統一するには是等の老少者を標準とせざる可からざるにより活動を鈍くするの憂あり。
 改革の最大理由はこの二ヶ条なりき。

 藩士十八歳より三十五歳に至るを朱雀隊とし、専ら実戦に当らしむ。
 三十六歳より四十九歳に至るを青龍隊とし、専ら国境を守らしむ。
 五十歳以上を玄武隊とし、十六歳十七歳を白虎隊と為し、兵の不足を補ふ。

 青龍、白虎、朱雀、玄武は夫々東西南北の神なり。青龍をセイリュウ、朱雀をシュジャクと発音せり。

 朱雀士中隊一番より四番に至る四隊と為し、朱雀寄合組隊、朱雀足軽組隊も亦同数の番隊を置き、其の隊中を分って二小隊と為し、小隊を分って分隊と為す。
 青龍は士中三隊、寄合組隊二隊、足軽四隊。玄武は士中・寄合組隊各一隊、足軽隊二隊。白虎は士中・寄合組・足軽各二隊とす。其の組織は朱雀隊に同じ。
 中隊の士数大凡百名、但し白虎隊はその約半数とす。
 砲兵隊、築城兵あり。
 中軍には陣将、軍事奉行、同添役、幌役を置き、略々洋制に模倣す。
 この他、有志及び農工商等の強健なる者を募集して士卒と為し、以て各隊を編成し、各種の隊名を附したるもの亦多し。 軍制改革  総督府参謀世良修蔵の斬らるゝや、藩主容保の誠意徒に薩長の為に壅塞せられて天聴に達せず。あまつさえ朝敵の汚名を冠せられしを以て、愈々奥羽諸藩の応援を得、遂に正邪を干戈の間に決せんとするに至れり。
 ここに於て、一藩の勇気頓に振ひ、義膽鉄石よりも固く、力を協せ心を一にし、粉骨砕身君冤を雪がずんば止まずと、闔藩を会津古来の軍制に基づき、下の如く編成せり。

   玄武隊   五十歳以上

   青龍隊   三十六歳より四十九歳まで

   朱雀隊   十八歳より三十五歳まで

   白虎隊   十六・十七歳

 の四隊に大別し、又其の一隊を士中・寄合・足軽の三部に大別し、更に各々一番二番中隊又は組に分つ。

 この他、大砲隊・遊撃隊・新遊撃隊・進撃隊・敢死隊・結義隊・奇勝隊・草風隊・順風隊・別楯隊・集義隊・純義隊・誠志隊・士官隊・新練隊・衝鋒隊・会義隊・後衛隊・修験隊・新徴隊・猪苗代隊・正奇隊・別選組・諸生組・幼少組・農兵等ありて、各其の一隊をまた数隊に分かちたり。
   
 この日(五月二日)、河井継之助は封境の兵を撤し、身に礼服を穿ち、単騎馳せて小地谷に至り、西軍の軍監岩村精一郎見て嘆願書を呈す。
 且精一郎に説いて曰く、今日は如何なる時ぞ、外国は四辺を窺ひ、国内は相戦ひ、自ら疲るゝの時にあらず。假すに時日を以てせば、先づ会津、桑名を説き、平和に其の局を結ばしめん。今直ちに兵を進むれば忽ち大乱を醸し、人民塗炭の苦に陥るべし。是れ寡君の最も憂慮する所なれば、之を総督府に致されよ。
 精一郎は長岡の奥羽に与みするを疑ふを以て、継之助懇請すること一昼夜に及ぶも終に聴かず。猶尾州、松代、加州等の諸藩士に託して哀願書を達せんとしたるも、皆薩長を憚りて之を取り次ぐものなし。
 翌三日、継之助長岡に帰り、心に決するところあり。同志を会して曰く、吾今自ら刎ねん、之に三万金を附し、西軍に献じ、以て無二の志を表せば長岡或いは難を免れんと。衆聴かず。
 時に西軍既に長岡の封内を侵略す。
 継之助ここに於て憤然意を決して曰く、我恭順敢て抗拒せざるに、彼来りて無辜の民を苦しむるは、是れ薩長の賊にして決して王師にあらず、禦がざるべからず。瓦全は丈夫の耻づる所、公論を百年の後に俟って玉砕せんと。
 藩主牧野忠訓朝臣乃ち継之助を以て総督と為す。 長岡藩
開戦を決意  ・・・戦況日に進み、会桑両藩亦出兵応援を長岡藩に求む。長岡藩応ぜず、専ら中立を標榜して只国境内の民心を収む。
 然れども砲声漸く近づき民心不穏の状を呈し、又収攬すべからざるに至るを知り、兵を国境に出し、一面には五月二日を以て国老河井継之助をして(嘆)願書を総督府に出さしむ。
 総督府之を受け、敢えて一披の労を払はず直ちに之を却下す。継之助嘆願甚だ努めたるも、冷然之を顧みるなし。継之助之を出張の他藩士に訴ふ。又東風馬耳を吹くが如し。
 継之助謂へらく、昨年上京の献言未だ応答を得ず、而して今又斯くの如し、天日の暗き今より甚だしきはなしと。
 長岡藩士之を聞き、苦心焦慮其極みに達し、更に嘆願書を呈出するも亦成らず。却って出兵の大命を蒙るに至る。即ち其の命を受くるや、藩論一致、
「たとひ恭順するも出兵を辞して、上は朝廷に忠に下は徳川氏のため中立の義を全ふせん」
 と、継之助をして小地谷に於ける監軍岩村精一郎に就て、其の意を通ぜしむ。
 精一郎大に怒って曰く、
「普天の下いづれか王土王臣にあらざるものあらんや。然るに中立とは何ぞや。速やかに兵を出して我に応ぜば可なり、しからずんば天兵忽ち長岡城を踏潰すべし」
 と。言動頗る傲慢を極む。継之助予めこのことあるを期せしと雖も、更に尾州加賀の諸藩に就て其の斡旋を請ふ。又退けらる。
 継之助帰りて西軍の残忍なるを告ぐ。且曰く、
「王師は戦を好み民を苦しむるものにあらず、然るに今や薩長の兵みだりに兵威を弄して我を脅制し、強いて不義に陥れんとす。是れ王師の名を藉りて私欲を逞うするものにあらずして何ぞや。彼若し我に臨まば、我亦之に応ぜざるべからず」
 と。藩士激昂、藩論忽ち主戦に決し、奮って軍事に尽し、誓って国事に死せんことを期せり。
 河井継之助は七月二十七日、長岡藩の野戦病院四郎丸村昌福寺に移る。創甚だ重し。二十九日、長岡城再び陥るに及び、河井衆に擁せられて敵を見附に避け、更に杉澤、文納、人面、葎谷の諸村を経、八月三日吉ヶ平に達す。吉ヶ平は会津八十里越に至るの路なり。
 河井会津に退くを欲せず、この地に留まること二日、三間等百方河井に説き遂に八十里越を越えて会津に至るに決せり。
 河井は八月四日、吉ヶ平を発し、藩士数十人医師二人之に従ひ、この夜山中に宿し、五日会津只見村に至る。創益々劇しく、暫くここに滞在す。
 時に旧幕府の侍医松本良順、我が公の依頼に由り来り診す。
 八月十三日、河井は良順の勧めに従ひ、会津に至らんとし塩沢村に至り、医師矢沢某の家に宿す。
 十五日の夜、河井死期の迫るを知り、僕松蔵を呼びて身後の事を命じ、且火化の準備を為さしめ、十六日夜遂に瞑す。享年四十二。
 飛報若松に達するや城中挙て悼惜し、二公特に礼を厚うし、若松の建福寺に葬る。我が公以下、文武の重臣会葬し、其の式荘厳を極む。 河井継之助
の死  (長岡再落城の)当時、継之助長岡城の危急を聞くや、重傷を顧みず諸兵を励まして奮ひ戦ふ。其の破るゝや止まり死せんとして左右の諫止する所となり、栃尾に退き、八十里越より会津に入り只見村に駐まる。
 容保、継之助の重傷を聞き、幕医松本良順を遣はし、之を治療せしめんとせしも、施術具なきを以て若松に伴はんとし、塩沢村に至り遂に起たず。時に八月六日なり。
 容保之を悼惜し、礼を厚うして若松城外建福寺に葬る。
 既にして西軍大挙して来り攻む。仙台兵遂に敗れ西軍本宮に拠る。ここに於て二本松危急に迫る。
 この夜、軍議を城中に開く。或は降らんと云ひ、或は戦はんと云ひ、決する所あらず。
 藩相丹羽一学概然として曰く、同盟に背き信を失ひ敵に降る、人之を何とか言はん。寧ろ死を致して信を守るに若かずと。議乃ち決す。
 七月二十九日、二本松城東小浜に屯せる西軍の薩・長・備前・佐土原の兵は、払暁三春藩兵を嚮導として逢隈川の前岸に達し、二本松兵と河を隔て砲戦良々久うして、遂に河を渉りて進み、供中口を破りて直進す。
 会津・仙台の兵来り援けしも衆寡敵せず、敵郭内に乱入す。この時に当り、一方本宮を発せる薩・土・大垣・忍・館林・黒羽の兵は、亦三春兵の嚮導により正法寺に向って進み、兵を交へ次いで大壇に迫り、激戦互いに勝敗あり。
 時に仙台の将氏家兵庫兵を率いて松坂口に出て戦ひ、我が井深守之進隊、桜井弥一右衛門隊は本宮口に在りて奮戦す。死者甚だ多し。桜井隊(朱雀足軽二番隊)の如きは、中隊頭弥一右衛門重傷を負ひ、小隊頭小笠原主膳は戦死し、隊員の半数を失ふ。
 既にして敵の一隊は城後を襲ひ、三面合撃す。時に二本松の兵、大半出でゝ白河方面に在り。守城の兵甚だ少く、新に老少を募りて之に充つ。猶能く殊死防戦すと雖も、城外の援軍皆敗退して如何ともする能はず。
 城将に陥らんとす。
 重臣等は城主丹羽左京太夫主をして囲を衝いて米沢に、夫人をして会津に遁がれしめ、藩相丹羽一学、城代服部久左衛門、同丹羽和左衛門、郡代見習丹羽新十郎、火を牙城に放ち、従容として自刃し、以て国難に殉し、城遂に陥る。其の壮烈なる反盟諸藩士を愧死せしむるに足れり。 二本松
落城  七月二十九日、西軍勝に乗じ三春藩を嚮導となし小浜より進み、更に薩長の兵は本宮を発して本道より二本松に向ふ。伊地知正治、野津鎮雄、同道貫、逸見十郎太、有地品之丞等之が将たり。
 東軍は砲兵を正法寺村の西南方羽黒祠の高地に置き、小浜より来る西軍を阿武隈河畔に防ぐ。砲声山谷に轟き喊声激流と和し凄愴を極む。
 已にして西軍正法寺村を破りて市端に進む。東軍主力を大壇に置き、街口を扼し、山に沿うて柵を連ね、叢林に拠りて兵を伏し、熾に西軍を猛射し、硝煙雲の如く弾丸雨の如し。
 先鋒の薩軍斃るゝもの少なからず。
 次で板垣退助、土・垣の兵を以て来り援け、短兵相接し銃を揮ひ刀を舞はし、相打ち相戦ふ。
 時に小浜口の西軍、亦河を渉り、沿岸の砲塁を蹂躙して直ちに市街に突入し、本道の兵と合し三面齊しく城に迫る。この時浜街道の軍、亦小浜より来り会し、勢ひ猛虎の如し。
 東軍山上に拠り、林中に潜み、西軍を狙撃せしが、其の支ふべからざるを知るや、城と存亡を供にせんと欲し、退いて城に入る。
 時に青山助之丞、山岡栄治の二人、大壇口に止まり、密かに民家に伏して西軍の中堅を奇襲し、忽ち数人を斬り、尚其の他を傷つけ、身亦傷つき、其の起ち得ざるを知るや、一人刀を抛ちて道貫の背を傷つく。
 城主丹羽長国、事の遂に成すべからざるを知り、本丸に火を放ち、一方を開きて米沢に走る。重臣丹羽一学、内藤四郎兵衛、服部久左衛門、丹羽和左衛門、安部井又之丞、千賀孫右衛門等、城中に自殺して国難に殉ず。其の他家族の節に死するもあり、残兵遂に城を焼きて退く。
 会津は根本なり。仙台・米沢の如きは枝葉なり。枝を刈りて根を残す、故に従って滅ぼせば従って起る。早く根本を断たば枝葉随って落ちん。
 今や会津は兵を四境に分ち、其の中央は空虚なり。而して若松の降雪は、今より三十日を出でず。降雪の後は容易く進むを得ず、兵を進むるは今日に在り。機失ふべからず。 板垣退助の
提言  会津を討ちて根本を断たば、枝葉自から枯死すべし。枝葉のために齷齪歳月を移さば、竟に風雪の襲ふ所となりて進退此に窮するに至らん。
 而して卒に来春を期するに至らば、其間敵は戦備を充実し、根本倍々鞏固となるに至る。しかのみならず、一旦不慮の変起らば勢亦将に測るべからざるものあらん。
 故に今日の策は、先づ彼が備堅からざる方面に兵力を集中して之を突破し、次で中堅の虚に乗じ、一気呵成其根本を覆すに如くはなし。
 もし我軍力足らずして会津城を抜く能はざるも、其城外を火き、其地方を蹂躙して兵を勢至堂に退けば、則ち四方の守兵其胆を寒くし、勢自ら挫折するに至らん。
 且聞く、北越の友軍、漸く猛烈を極め、敵は其精鋭を悉して之を防ぐと。是れ会津を討つべき好機会なり。
 西軍石筵口に出で母成峠を陥るも、東軍猪苗代焼き更に退いて十六橋を破壊し、滝沢峠に於て防御せば西軍の勢頓挫の恐あるを以て、中山口より進攻すと声言して東軍をして其の方面に力を傾けしめ、其の虚に乗じて将軍山を攻陥し、一気に進軍するに決し、乃ち陽はに全軍中山口より進討すべしと声言し、実は其の主力たる薩・長・土・大垣・大村三千余の大軍は、八月二十日二本松を発して石筵に向ひ、而して薩・長・大垣等の別軍は本宮より中山峠に向って進み、其の日両軍は会津街道玉ノ井村に於て相会合したるを以て、明日総軍勝軍山に進撃せんとす。 西軍、
母成峠へ
進軍開始  ここに於て板垣謂へらく、
「我今母成を陥るも、東軍もし猪苗代に火し更に退いて十六橋を断つに至らば、西軍忽ち頓挫を来すべし。故に中山・土湯・母成の三面より攻撃を唱へて敵を欺き、密かに軍を御霊櫃に進めて中地・三代に出で、勢至堂の東軍を突破して直ちに若松に入るに如かず」
 と。之に反し伊知地は、
「母成攻撃を主張す」
 ここに於て議論遂に二派に分れ、各々其の持論を固守して両道より前進するに決す。
 時に長の桃村発蔵、兵力分離の不利を唱へ、板垣を勧め母成峠の攻撃に同意せしむ。
 
 これ西軍のため或は最善の計画なりしやも知るべからず。如何となれば、当時御霊櫃には会の砲兵、中地には伝習隊等ありて、皆伏見及び総野の戦に勇名ある強兵にして、又勢至堂三代の東軍と相呼応し得る要地に在ればなり。

(中略)

 八月二十日、薩・長・土・垣の兵は二本松より母成峠に、薩長の一部及び大村の兵は本宮より中山峠に向ひ前進す。
(中略)
 時に西軍の企図は玉ノ井村に於て兵力を二分し、薩・長・土・垣を以て山入村より母成峠に向はしめ、薩長の一部と大村の兵を以て主攻撃軍と揚言し、横川より進んで中山口の東軍を牽制せしめ、以て母成峠の策戦を容易ならしめんとするにあり。
 山岳相連なり、其の間平坦の處ありて二本松城に臨み、樹木稀疎にして野草茫々たり。
 防御線は南北に亘りて三里に及び、小徑頗る多く大道の通ずるものなし。
 西北より東南に険谷あり、之を勝沼と云ひ、東に出て南に近きを萩岡と云ふ。
 中央の高き丘陵は即ち勝軍山なり。皆塁壁を築く。高く北に聳ゆるを硫黄山と云ひ、其の麓に接するを勝岩と云ふ。
 会津の四境は二十の道路あり。何れも険にして守備するに便なり。唯だこの一道のみは広々たる山野にして、彼と我と其の兵数略々同じからざれば断じて守る能はず。
 然るに東軍は僅かに六七百人にして、新募の農兵は其の半に居り、其の他も亦多くは客兵なり。 母成峠の
状況 (大鳥圭介・談)
 石筵山とは総名にして幾嶺相連なり、山形平坦にして防御面三里に亘り、樹木なく、騎行するこを得、只勝岩の険ありと雖も、二千以下の兵にては防御し難し。
 昔伊達政宗の蘆名義広を亡ぼせしときも、道をこれにとりたるものとす。故に守兵の増加を得んとして之を若松に求むれども、諸兵皆出でて国境に在るを以て、田島の農民を仕込む外なかりし。
   
 八月二十一日、暁霧濃かなり。卯の刻(午前六時)西軍来り攻む。萩岡の前営、大砲二発を放ちて之を報ず。
 勝軍山より望見すれば西軍二道より来る。一は南方の渓間よりし、一は北方の山上よりす。
 猪苗代隊田中源之進は勝軍山に赴き、旧幕軍の総督大鳥圭介は大隊及び二本松の兵を率いて勝岩に登り北方の西軍に当る。
 先づ幕将本多幸七郎、大川正二郎兵を督し渓を隔てゝ連りに砲戦す。
 別に第一大隊及び新選組ありて、勝岩の下に戦ふ。
 砲声雷の如し。
 巳の下刻(午前十一時)、萩岡支ふる能はず、火を営に放ちて退く。火延いて野草を焼き、西兵勝岩に進むことを得ず、乃ち路を転じて南方に進む。
 勝岩の砲声稍々衰ふ。因って第二大隊の中一小隊を分ちて勝軍山を援けんとし、上ること十町許、砲声漸く近く東岸退却せんとす。
 辰の刻(午前八時)頃、西兵間道を潜行して背後の丘上に来り迫る。圭介等残兵を指揮して戦はんとす。偶々本営火を失ふ。東軍遂に潰走し止むべからず。西兵又背後を襲ひ飛弾雨の如し。
 時に胸壁に止まる者、田中源之進、北原半介、大鳥圭介等数人のみ。相議して曰く、今徒にここに死すべからず、退きて後図を謀らんと。蓋し猪苗代城に拠らんと欲するなり。
 西兵迫り来りて連りに狙撃す。東軍行々防戦して退くこと二里余、忽ち林間に笛声起る。衆以為らく我敗兵ならんと。進みて之を見れば、西兵の間道を走り来りて我が退路を要するなり。忽ち其の乱射する所と為り、東兵咄嗟身を躍らして草間に伏す。草深くして人を没し皆相失す。
 半介等懸崖を攀ぢ荊棘を分け備さに艱難を侵し、明日辛うじて秋元原に至り、大鳥圭介、二本松藩相丹羽丹波、田中源之進等に再会し、正午共に秋元原を発し若松城に入るを得たり。 母成峠の
戦い  八月二十一日、西軍進んで石筵に至る。これより山道にして懸崖屹立路極めて険阻なり。これ即ち母成峠にして坂路三あり、左方勝岩口最も峻峭なり。
 西軍三道より進む。土・長の兵は右方より萩岡の塁を抜き、中央軍の薩・長・垣の兵と合して母成の東南に向ひ、長・土の一部は左方より勝岩に逼る。
 東軍塁に拠り高崖に伏して西軍を瞰射す。西軍苦戦屡々突貫を試みしも地形に制せられて果さず。須臾にして大雨至り、濃霧全嶽を罩めて暗澹たり。唯銃声によりて彼我の所在を察するに過ぎず。
 西軍機に乗じ、東軍の中央を突く。勝岩の守兵、其の方面の銃声漸く衰へたるを以て西軍気阻むと速断し、険を恃んで深く備へず、概ね出でて中央の軍を援く。
 西軍其の虚を知り、且石筵の住民さきに村落を焼かれ深く幕兵を恨むと聞き、村民を諭して嚮導となし、土兵数十人之に続き、暗唖樹を攀ぢ岩を踏み、潜に母成の北方雉子ヶ沢の窮谷を越えて東軍の中間に出で、俄然勝岩の砲台を側射す。
 正面の西軍亦短兵直下斉しく之に逼り、縦横に乱射し喊声山嶽を震ふ。
 時に圭介の本陣に火を放ちたるものあり、農民の所為なるが如し。東軍為に大に乱る。圭介等敗兵を叱咤し止まり戦ふも遂に敵せず、行々火を民家に放ちて猪苗代に退く。西軍急追又其の退路を絶つ。
 ここに於て東軍全く壊乱し、途を磐梯山の北方に取るもの多し。圭介亦手兵三四人及び従僕と共に遁れ、途に西軍に遭ひ辛ふじて沼尻道に出で、道を失して三里余の深山に入り、洞窟に憩て雨を避け、大原村の避難者に依て飢渇を医し、苦心惨憺漸く秋元原を経て大塩村に達せり。
 八月二十二日、西軍大挙して猪苗代城を襲ふ。
 城代高橋権太輔衆寡敵せざるを慮り、見禰山土津神社の社司桜井豊記をして神体を奉じて若松城に赴かしめ、火を社殿と城塞とに縦ちて退く。
 この日、猪苗代足軽君島郡内の女ろく(五十一歳)、時事を慨して其の家に自刃す。
 藩士永岡権之助、猪苗代に在り、勝軍山の敗報を聞き馳せて若松城に至り之を軍事局に報じ、又陣将佐川官兵衛にも報ず。時に寅の下刻(午前五時)なり。
 東方軍事幌役和田八兵衛も亦専使をして轎を飛ばして急を報ぜしむ。 猪苗代城の
陥落  八月二十二日、母成峠の敗兵猪苗代に集まり、西軍を迎撃せんと欲し援を若松に請ひ、守備を修む。
 この日、西軍母成を発し、暁天遥に水煙渺茫たる猪湖の絶景を望み、士気倍々昂り、一挙に亀ヶ城を屠らんと欲し、宛も疾風の如く来り襲ふ。
 東軍之を長瀬川に防ぐ。西軍屈せず流を乱して進む。東軍利あらずして退く。独り会の小櫃孫一留り戦ひ、土の中島与一郎を斃す。
 猪苗代城代高橋権太夫、衆寡敵せざるを知り、見禰山の神霊を奉じ、城を焼き、若松に遁る。
 奇勝隊は十六橋畔に陣し、石橋を撤して敵の侵入を禦がんと欲するも堅牢にして容易に破壊するを得ず、僅に石材を徹するのみ。
 西軍暁に猪苗代を発し、先鋒の土州兵・大垣兵は戸の口村背後の丘陵に拠り、我が軍と数百歩を隔てゝ相対す。 十六橋  東軍母成峠に敗るるや、板垣退助の予期せし如く猪苗代に火を放ち、更に走りて十六橋を破壊して西軍の進出を拒止せんとす。
 伊知地等、前日に於て板垣の説を容れざりし結果火を見て大に驚く。
 時に薩の川村与十郎、母成の戦に於て東軍の背を衝くべきを約せしが、道を失して戦機を逸したるを恥ぢ、其の失敗を償はんと昼夜兼行十六橋に向ひ急進せしが、時宛も東軍橋梁の破壊に着手し、前岸僅かに二三を落したるに過ぎざりしを以て、急遽一斉に銃砲火を開きて東軍を対岸に撃攘し、猛烈果敢疾風の如くに突進せしが、激流橋礎を呑み奔湍中流に渦を巻き、一見悚然衆為に逡巡せり。
 時に一人在り。ザンブと激流に投ず。見れば別府新助なり。衆之に励まされ、先を争ふて渦流に投じ、辛うじて前岸に達せり。
 其の他の西軍、逐次猪苗代に入り、与十郎既に挺進せしと聞き、之を援けんと一部を猪苗代に留め、急進して十六橋に向ふ。
 東軍殊死して之を防ぎ奮戦力闘すと雖も、西軍の進出火急にして全く意表の外に出で、しかも其の現出するや、直ちに激烈なる射撃を開始し、殆ど迅雷耳を掩ふの遑なきが如く、同時に続々激流を渡渉し来るを以て、遂にこの天嶮を廃つるに至れり。
 これ固より東軍の弱勢に因るが如しと雖も、これを失ひたるは東軍のため洵に痛惜の至りなりと謂ふべし。
 敵軍猪苗代に侵入するの報達するや、この日午の下刻(午後一時)、我が公自ら馬を進めて士気を鼓舞せんと鶴ヶ城本丸を出て滝沢村に向ふ。
 佐川官兵衛先駆たり。大目付竹村助兵衛、軍事奉行黒河内式部、一柳翁介、用人笹原源之助、奏者番兼小姓頭山崎代之進、供番頭城取新九郎、刀番和田伝蔵、野村甚兵衛等随行し、白虎二番士中隊中隊頭日向内記は隊士を率いて護衛し、市中警衛藤沢内蔵丞は守衛兵を率いて列後に従ふ。
 我が公の出陣を聞き、又は日輪の馬標を見て馳せ来り従ふ者多し。
 我が公、滝沢村を本営とす。既にして藩相田中大海来り従ふ。桑名侯松平定敬朝臣も亦兵を率いて来り会す。長岡藩兵、飯野藩兵来り属する者凡そ四十人なり。 容保出陣  八月二十二日、石筵口の敗報若松に達す。
 時に会藩の壮者は出でて四境に在り、残る者多くは吏胥及び老幼婦女子のみにして、籠城の準備未だ成らず。
 ここに於て上下大に驚き急使を馳せ、仙台及び各方面の守備兵をして昼夜兼行戸ノ口に転じて西軍に当らしめ、更に国内の壮丁を募りて之を赴援せしむ。
 容保亦世嗣喜徳をして留守せしめ、未明本城を発し、弟桑名藩主松平定敬と共に兵を率い、滝沢村郷頭横山山三郎の邸宅を本陣となし軍を督す。
 日向内記亦城中守備の士中白虎二番隊を率いて之に従ふ。
 白虎二番士中隊中隊頭日向内記は隊兵を率いて申の刻(午後四時)大野原に至り丘陵の要地を守り、奇勝隊頭上田新八郎隊兵を率い十六橋に向ふ。
 誠志隊小隊頭樋口友衛等兵を率い胸壁を戸ノ口原・強清水・大野原に築く。藤沢内蔵丞は役夫を督して之に従へ、郡奉行牧原奇平は代官属吏を督し糧食役夫を供給す。
 小原新之助敢死隊四十人、辰野勇敢死隊四十人、坂内八三郎奇勝隊八十人を率いて赤井村笹山村方面を守る。
 城中に集まる者にして老幼は城中に止め、壮年者は滝沢村の本営に赴かしむ。忽ちにして本営に集まる者八十余人、之を遊軍隊と称し、隊頭小池繁次郎、組頭浅羽忠之助、同安藤物集馬之を率い、笹山方面の兵を援く。其の兵の多くは刀槍を携へ、而して銃を執る者少し。
 郡奉行入江庄兵衛、赤井村小坂に出て部下を督して糧食を諸隊に供給す。 戸ノ口原の
守備状況  小池繁次郎の率ゆる遊軍隊七八十名を以て戸ノ口を扼し、辰野勇の敢死隊及び坂内八三郎の奇勝隊各七八十人を以て戸ノ口原を保つ。
 其の他、上田新八郎の第二奇勝隊約百二三十人之に砲兵を加へ、極力西軍に当る。
 郡奉行古川幸之進は日橋川の橋梁を焼き、桑藩の兵と共に儉に拠って大寺方面を固守す。
 八月二十三日早朝、西軍の先鋒土州兵来り戦を挑む。
 白虎隊・奇勝隊・敢死隊は十六橋を隔てゝ戦ふ。
 大垣兵も亦迫る。其の鋒甚だ鋭し。
 我が兵少しく退きて戸ノ口原の丘陵に拠る。西兵は前日我が軍の稍々破壊したる十六橋の橋礎に板を架し、大兵を麾き絡繹継いて進む。我が兵奮戦すと雖も衆寡敵せず且戦ひ且退く。
 敢死隊頭小原信之助、辰野勇戦死す。
 遊軍隊頭小池繁次郎、笹山方面に進み兵を督して戦ふ。隊士津田助五郎、傷を裏みて軍に従ひ之に死す。小池・安藤・村松・常盤等戸ノ口原に止まり、一歩も退かず戦ひて死す。
 我が軍遂に支ふる能はず、水戸兵も亦敗る。牧原奇平、傷を被りて自刃す。 戸ノ口原の
戦い  然るに十六橋の破壊未だ終らざるに、西軍の攻撃熾烈を極め、遂に東軍を圧して戸ノ口村に入る。
 ここに於て東軍戸ノ口原に退き、胸墻を築きて之を防ぐ。
 戸ノ口原は方一里余に亙る草原にして、丘陵諸処に起伏しあるも地形の利用困難の地にして、寡兵を以て大軍を扼止し得べき地形にあらず。故に十六橋の天嶮を失ひたる東軍にとりては、宛も蟷螂の龍車に向ふが如き状況にあり、加ふるに西軍の一隊笹山に進出して東軍の右側を衝きしを以て、東軍益々苦境に陥りたるも、尚屈せずし防戦大に努め遂に日全く暮る。
 戸ノ口原に向ひたる白虎二番士中隊は初め三十七人なりしが、死傷相継ぎ而して亦隊頭と相失す。
 ここに於て嚮導篠田儀三郎は代って指揮し、銃戦稍々久しく銃身熱して手にすべからざるに至る。加ふるに戦利あらず、退いて要地に拠らんと欲するも、敵の追撃急にして能はず。
 ここに於て儀三郎は退却を令し、若松の方面に退くこと一里許にして纔に追撃を免る。
 ここに於て残存の隊士、篠田儀三郎、安達藤三郎、間瀬源七郎、簗瀬勝三郎、野村駒四郎、西川勝太郎、石山虎之助、伊藤俊彦、有賀織之助、簗瀬武治、永瀬雄次、飯沼貞吉、井深茂太郎、津川潔美、林八十治、石田和助、池上新太郎、鈴木源吉、津田捨蔵、伊東梯次郎等二十人、城に入らんと欲し、間道より飯盛山に登る。
 時に西軍本道の兵を追撃して城下に迫る。砲声地に震ひ、煙霧天を掩ひ、城外火起る。衆之を望み見て思へらく、城陥り君公難に遇ふと。
 ここに於て共に殉国に決し、乃ち城に向ひ踞いて拝して曰く、臣等か事畢ると。或は腹を屠り、或は互刺して死す。 白虎隊、
飯盛山に散る  比隣部隊既に退き、今や白虎隊のみとなれり。然れども未だ其の孤立せしを知らず、燐火鬼哭の間尚奇功を奏せんと、互に相警め西軍の至るを待つ。
 払暁に及び、戸ノ口の西軍に向ひ戦を挑みしが、忽ちにして西軍の猛襲に遇ふ。時に比隣部隊皆退き、隊長日向内記亦既に去って在らず。而して腹背皆敵なるを見て大に驚き、且戦ひ、且退き、赤井新田に至り、天尚明けず、遂に小隊頭水野勇之進・山内弘人、半隊頭原田勝吉等と又相失す。
 勝吉は隊士八名と共に道を失ひ、榛荊に陥り、漸くにして羽黒山頂に出で、翌二十三日天寧寺町口より入城せり。
 白虎の残員僅かに十有七人、傷を裏むに暇なく鮮血淋漓、銃を肩にし、刀を杖つき、一団となりて崎嶇たる山路を潜行す。
 時に衆皆飢え且疲れ、殆ど復た戦ふ能はず、実に疲労困憊其の極に達せり。
 或は曰く、事既に茲に至る、万一敵手に落つるが如きあらば千悔及ぶなし、且つ主辱めらるるときは臣死す、これ武士の通義なり、寧ろ自刃して臣節を全ふせんと。
 西川勝太郎曰く、銃未だ裂けず、刀尚折れず、宜しく公の先途を見て従容義に就かんと。
 衆皆然りとなす。然れども一人も捷路を知るものなく、深渓に陥り荊棘に囲まれ辛じて嶮崖を攀ぢ葛を曳き、黎明漸く滝沢不動の山徑に達し、新堀に至る。
 新堀は戸ノ口より通ずる疎水にして、飯盛山腹の洞窟を貫流し会津平野の灌漑に供するものなり。この時西軍の先頭すでに城下に迫り其の後続部隊尚滝沢坂頭にありしが、白虎隊を見、乱射甚だ急にして永瀬雄次の腰部を貫く。乃ち之を扶けつつ道を洞門にとり、流れを乱し漸く弁天祠の傍に出づ。
 時に彼我両軍市中に接戦し、其の一部は既に城廓に逼りたるが如く、数千の家屋兵燹に罹り烟焔天に漲り、五層の天守閣も僅かに烟焔の間に明滅し、銃砲の響き、剣戟の音は宛ら手にとるが如く、悲壮なる喊声亦起りて天地を震撼す。
 ここに於て衆相顧みて曰く、
「今や城将に陥らんとす。一死君国に殉する、まさにこの秋にあり」
 と、遂に踞きて鶴ヶ城を拝し、屠腹して死す。
 其の後同隊の士三名、滝沢峠に於て西軍に遮られ辛じて飯盛山に達し、碧血淋漓死屍沈藉せるを見、亦剣に伏して殉す。
 時に八月二十三日なり。
 又同白虎隊の一部は、同半隊頭原田克吉、隊士城取豊太郎、遠山雄午、笹原伝太郎(等)七士を率い、戸ノ口より退却し、飯盛山に登り鶴ヶ城を望見して是れ亦落城したるものと信じ、共に将に自殺せんとしたる際、偶々此処を通過せし敢死隊に諌められて止まり、入城せしと云ふ。 自刃白虎隊
以外の
白虎隊士  二十三日の朝、白虎二番中隊は戸ノ口原に敗れ、散り散りとなり、若松を指して退却中、坂井峰次の言によれば、坂井は簗瀬武治外一名と退却中、前面に一団の兵あるを見、我軍と思ひ急ぎ之に近づきしに、彼等は凛然として、
「何藩」
 と呼びしゆえ、
「会藩白虎」
 と答ふるや否や、彼等は俄然一斉射撃を為せり。之が為三人は凹地に転落せしが、この場合声を揚ぐる事も出来ず、又御互に探し合ふ余裕もなければ、自分は谷間を潜行し、漸くにして滝沢街道に出で、若松に入らんとせしが、この時は敵軍既に若松に闖入しせし後なれば、途を転じて塩川に至り、河原田治部の隊に加はり、共に田島・伊南付近に出戦中開城となれり。


 又同白虎隊の一人たりし荘田安鉄、後人に語って曰く、私は二十余名と共に退却しつつ赤井谷地を経、強清水に至りしが、之より先は山道にしてしかも賊軍既に途上に在り即ち途を如何なる方向に選ぶべきかに就き相談を始む。或者は、
「敵の背後を衝き、斃れて後止まん」
 或者は
「それは無謀なり」
 などと論議中、
 自分等は農家に入り、草鞋を貰ひ、之を履き換へ居る間に一行の行方不明となりければ、我等数名の者は大に落胆し、再び相談の結果、
「山川隊に加はりて戦はん」
 との議に一決し、沓掛金堀の中間より目標を飯盛山の東麓にとりて迂回し、山林荊棘の間を攀ぢ、愛宕山辺より下りて、城の東南方を大迂回し、二日二晩・・・、前夜よりいへば二日三晩・・・、殆んど水のみにて飢餓を支へ、疲労を忍び、日光街道を南進し、辛ふじて大内村に至りて山川隊に合した。この時の嬉しさ、今尚忘れんとして忘るる能はず。
 然るに、山川隊長に対面するや、冷酷にも冷酷、実に冷酷・・・、一言半句も慰撫の辞なきのみならず、暫くにして傍人に語って曰く、
「死すべき時に死するを得ずして、尋ねて来たのか。情けない者共なり。粥でも与へてやれ」
 と、意外の一言に一同切歯扼腕、
「其面前にて割腹しよう」
 かとしたが、今夜夜打ちと聞き大に喜び、割腹を思ひ止まり、夜襲の最先鋒となって華々しく討死せんとおもひ、之に加はらんことを請ふた。隊長又曰く、
「命惜しさに逃げて来た奴等、何事をかなし得べき。果して死せるならば、他に死所を選び之に与へん」
 と。一同之を聞き慚恨骨髄に徹し、何故に戸ノ口に死せざりしかを後悔せり。
 然るに君公の命により共に帰城せしが、日を経るに従ひ、隊長の名将たりし事を、つくづく感ずるに至れり。実際大内村に於ての冷酷なる取扱も、実は我等を救はんが為の一案にして、夜襲といひしも元気をつけるための気付薬なりし。これより隊長のためには、一同水火をも辞せざる決心を為せり。 
 赤井村小坂に在りし入江庄兵衛、強清水に在りし佐川官兵衛・秋月梯次郎等、大杉を経て院内村に至る。遊軍隊組頭浅羽忠之助、敢死隊、奇勝隊、水戸兵も亦冬坂を踰え院内村に至り集合し、新橋を渡りて城に入る。 佐川官兵衛らの
退却  この日未明、西軍勢いに乗じて滝沢坂頭に殺到し、銃砲を乱射して迫ること急なり。佐川官兵衛、桑藩の岡本武雄と共に此処に在りしが、東軍の敗兵創を裏(つつ)むの遑なく、続々雪崩来るを見、憤然として敗兵を叱咤し、坂を挟んで戦ひしが、西軍益々増加して満山皆敵となる。
 官兵衛之を見、渾身の勇を振って防戦甚だ努めたるも、顧れば、西軍の一部は滝沢坂頭舟石の間道より侵入し、東軍の背後を横断して、飯盛山に沿ひ陸続として南進し、将に鶴ヶ城の虚を衝かんとするものの如く見ゆ。
 ここに於て東軍停まり戦ふ能はずして退却を始む。
 この日、藩士桜井常四郎は滝沢坂上に於て御敵退散の祈祷を為し居りしが、敵の来るに遭ひ自刃せり。
 初め常四郎、家を出づる時、妻たみ子に謂ふ。我が生命の有らん限り敵をして滝沢坂を越えしめず、故に敵若し城下に侵入せば我が死したることを知るべしと。
 この日たみ子、敵の進入を聞き、自刃して常四郎の跡を追ひたり。 桜井常四郎、
舟石上で
死す  

 西軍進んで滝沢坂を上り林間に出没して射撃す。弾丸滝沢村の本営に達す。
 辰の下刻(午前九時)我が公滝沢町に移る。黒河内式部、竹村助兵衛等止まりて敗兵を激励すと雖も奈何んともすること能はず、滝沢町に至れば敗兵大に集る。
 我が公馬を駐めて衆を麾き自ら決戦せんと欲す。左右諌むるに其の機にあらざるを以てす。
 我が公松平定敬朝臣を顧みて曰く、城陥らば身は社稷と共に亡ぶるの決心なり、卿は此処を去りて同盟列藩と今後の謀を為せと。
 定敬朝臣請ふて曰く、京都以来阿兄と死生を共にせんと覚悟せりと。
 我が公聴かず別れて馬を回して甲賀町口に向ひ、定敬朝臣は将士九十六人と米沢街道に向って去る。 容保の退却、
定敬との
別れ  容保時に滝沢村の本陣にありて軍を督したりしが、退却途上弟桑名藩主松平定敬を顧みて曰く、
「我城陥らば潔く戈を枕にして、社稷と死を共にせん。卿は速かに去り、同盟諸藩と共に今後の計(はかりごと)をなせ」
 と。
 定敬止まり共に国難に殉ぜんと請ふ。容保聴かず、定敬乃ち米沢に向って去る。


(高木盛之助・談)
 容保公愈々帰城に決せられ、十数名を随へ、定敬公及び其の従者五六名と共に本城に向はせらる。
 時に国老田中土佐来り、容保公を遮り止め共に戦はんとす。馬役野村源次郎、土佐を遮り小刀を以て公の馬を打つ。馬躍って土佐と離る。容保公乃ち徐々と滝沢長道路に至る。流丸来り掠め蚕養口に至り、従者五六名之に死す。公従容として定敬公と馬首を列べ、何事か囁き給ひしが、定敬公宿所へも立寄り給はず、其の儘一ノ丁を西の方へ向ひ立去られたり。
 国産奉行河原善左衛門、国産奉行副役大野英馬、善左衛門弟岩次郎、長男勝太郎、属吏松田俊蔵、芥川大助、絲川庫次、金子次助、木村信蔵等三十余人を率い、中村を過ぎ田畝を経て滝沢村一箕山八幡宮の社前に進む。
 西軍銃丸を乱発す。善左衛門槍を揮って縦横馳突し、弟岩次郎と共に之に死す。大野英馬、芥川、絲川等前後皆斃る。
 僅に免れたる者は城に向って退却す。
 勝太郎年十五、傷を負ひ未だ死せず。松田俊蔵之を扶け将に城に入らんとす。勝太郎一歩も退くの意なく中村に来る。俊蔵涙を揮ひ之を介錯して退く。 河原一族の
奮戦 (河原勝治・談)
 この日会桑の兵は蚕養祠に拠りて猛烈なる戦闘を開始せしを以て、新馬場人参役場に在りし父善左衛門は其の急に赴かんと、三十余人を従ひ馳せて出づ。
 然るに西軍尚滝沢村方向よりも前進し来るを以て、中村を経て八幡祠南方を二丁許の地点に至り、小流を背にして小高き畑地を利用し、主として牛ヶ窪(飯盛山麓より滝沢村南側一帯に渡る旧名なり)方向より来る西軍を迎撃中、蚕養祠に向ひし西軍の一部及び八幡祠付近に在りしもの亦肉薄し来りて、我を猛射せしを以て、善左衛門を始めとして、弟岩次郎、大野英馬、芥川大助、糸川庫次等全く西軍の十字火内に入り奮戦苦闘して斃る。
 兄勝太郎、亦負傷せしを以て松田俊蔵之を扶け入城せんとせしが勝太郎聴かず、中村に退きて自刃せり。時に年十五。 
 
白虎
士中一番隊、
容保を迎える  この朝、白虎一番中隊は北出丸追手門に在りしが、容保滝沢の本陣を撤して帰城中なりと聞き、往きて之を護衛せんと、隊長春日和泉之を率い出でて甲賀町通りを北進せしが、途に容保に遇うて其の無事を喜び、之を迎へ且つ送り止まって追撃軍に当らんと、北追手門即ち今の鐘撞堂東側の塁に登りて其の到るを待つ。
 西郷勇左衛門、黒河内式部、敗兵を止めて共に戦はんとす。西軍すでに兵を分かち一は慶山の麓を過ぎ東方より城に迫らんとし、一は同心町中村に侵入し連射して我が軍の前路を絶ち、将に外郭に入らんとす。
 この形勢を見て防戦の利あらざるを知り、勇左衛門は六日町口より田中大海は甲賀町口に至れば、郭門の守兵公命なりと称し固く鎖し僅に小門を開くに過ぎず。故に一ノ町より郭門に至るまで我が兵充満し、殆んど立錐の地なし。
 西兵は之を追撃したるも、我が兵門に入ることを得ず、式部令して門を開かしめんとす。守兵可かず。
 式部声を励して曰く、余仮令公命を犯すも我が兵を敵手に委するに忍びず、汝等兵を衝て門を開けと。
 ここに於て兵士数人刀を揮って門に迫れば、守兵恐れて退く。即ち入りて門を開く。皆入ることを得たり。 郭門の
混乱  

 藩相田中大海は郭門に在り、兵を指揮して藩士の邸宅より畳を運ばしめ、之を郭門に積み塁ねて胸壁と為さんとしたるも、事急にして僅に数畳を横列したるに過ぎず、敵弾之を貫きて防禦の効なし。
 我が兵門柱或は木石等に身を掩ひ、或は白虎隊をして三宅邸後の土塀に上りて射撃せしむ。
 この時我が公は郭門に在りて指揮し、田中大海、黒河内式部、井上丘隅、山内遊翁、牧原一郎、原新五右衛門、春日郡蔵、高橋伴之助、三宅弥七、多賀谷勝左衛門、丸山弥次右衛門、柳田自休、宇南山良蔵等奮戦すと雖も、西兵益々加はり戦最も苦しむ。


 六日町口破れ、西兵忽ち五ノ丁に入り、三宅邸の角より甲賀町口を守る我が兵の背後を襲う。我が兵進退維れ谷まり、山内遊翁、田中小三郎等は牧原邸に入り僅に身を以て免る。黒河内式部、原新五右衛門、三宅弥七等之に死し、井上丘隅は自邸に入りて家族と共に自刃す。
 柳田自休年七十三なるが、郭門の攻守に加はり、雪の如き長鬚を乱し、槍を揮い西兵を門外に防ぎ遂に斃る。
 丸山弥次右衛門は年六十三、馬場口に出て槍を揮って一人を殪し其の身も亦斃る。

 この日は退隠の老人も悉く出でて外郭を守る。ここに至りて白髪禿顱槍を揮って死する者多し。 甲賀町郭門

戦い  忽ちにして西軍怒涛の如く襲来し、ここに大激戦となり弾丸雨の如く、喊声怒号相和して地軸を動かし、流石に厳しかりし郭門も、今や修羅の巷と化し、老人組の槍隊も猛然鋭鋒を連ねて突進し勇戦奮闘剣戟相触れて戞々声あり。
 西軍益々増加し、攻撃熾烈を極め、老人組遂に其の鏖殺するところとなる。
 西軍死屍を越え、驀然として本城に迫る。


 この時薩の中村半次郎、土の小笠原謙吉等各一隊を率いて城北約七町甲賀町口の郭門北追手門に突貫す。之に対し蜷川友次郎、田原助左衛門等門を開きて逆襲に転じ、彼我混戦乱闘殺傷互に多く、半次郎刀を揮って進み友次郎と戦ふ。剣戟電光の如く、弾丸雨の如し。
 次で幼少組隊長佐瀬清五郎、砲兵隊長井深数馬、遊撃隊組頭馬場清兵衛、軍事奉行黒河内式部等死屍を越えて進み、獅子奮迅必死と戦ふ。凄惨悲壮の光景酸鼻を極む。
 春日和泉の指揮する士中白虎一番中隊亦出でて力戦苦闘す。
 薩土の兵竟に支へずして退く。すでにして西軍増援を得、大挙し来りて郭門に迫る。ここに於て東北第一の激戦となり、東軍決死の奮闘も其の功なく、遂に銃丸に斃れ鋒鏑に死し、殆んど全滅するに至る。
 左右の士は屡々我が公に入城を請ひたれば、公は馬首を回へし五ノ丁を過ぐ。偶々敵丸公の乗馬に中りて馬斃る。公徒歩して甲賀町通りを経て入城す。
 時に徳川氏の騎兵差図役小川某、我が公の馬側に従ひ懇ろに之を扶けたるが、入城の後弾丸に中り、城中三階楼後方の土塀の上に死せりと云ふ。

 我が公城に帰る。喜徳公出て太鼓門に迎ふ。 容保の
帰城 (高木盛之助・談)
 容保公城に入らるるや喜徳公出でて常の如く迎へらる。城中粛として声なし。
 藩相神保内蔵助は六日町口に陣し、敗兵を励して奮戦したるも衆寡敵せずして敗る。
 内蔵助は五ノ丁土屋一庵が邸に入り田中大海と邂逅し、恢復の難きを慨して共に自尽す。 両家老の
自刃  国老田中土佐、神保内蔵助、滝沢の戦いに敗れ切歯扼腕遺憾心魂に徹し、共に退き甲賀町口に留まり、敗兵を集め拒ぎ戦ふと雖も、狂瀾怒涛の如く前後左右に敵を受け、士卒の之に死するもの算なく、遂に其の為すべからざるを知るや、五ノ丁御側医土屋一庵の宅に入り従容として自刃す。
 一庵亦之に殉す。
 この日、歌人野矢常方、桂林寺町口の郭門を守る。敵兵進撃するや守兵退きて内城に入る。
 常方独り踏み止まり、槍を揮って敵一人を突き伏せ、猶衆敵に当るの余勇を示せしが、丸に中りて死す。年六十七。 野矢常方の
死  この日、野矢常方(六十七歳)、近隣の老幼婦女子多く避難したるを以て、常方亦家族を去らしめて曰く、我家世々君禄を食む。今其の危急に臨み、君を捨てて独り身を全うするに忍びず。我老いたりと雖も、君の馬前に死して屍を戦場に曝すのは我の本懐とする所なりと。
 下の辞世を短冊に認め、之を槍に結びて城門に向ふ。

   弓矢とる身にこそ知らめ時ありて
        ちるを盛りの山桜花

 と融通寺町口の郭塁に至れば俄然西軍の襲来に会す。常方之を見るや敢然として突入し、忽ち一人を斃せしが、身亦数弾を被りて斃る。 
 甲賀町郭門を守りし佐藤与左衛門は七十四の高齢なるが、この日土州兵の攻め来りし際、与左衛門は門内より躍り出て、槍を以て一敵を刺し返す槍の石突を以て一敵を衝き、銃撃せられて斃る。
 時に与左衛門の孫勝之助は十四歳の少年なるが之を見て大に怒り、槍を揮って敵中に突入し、縦横奮闘遂に弾丸に斃る。 ますらおの
美少年  この激戦に参与し共に北追手門を破りしといふ土佐人の談によれば、この時の戦に七十許りの老人槍を提げ踊り出で、味方の一人を刺し、引込む槍の石突にて他の一人の腰を強く衝きければ、其の人後ろへ瞠と倒れたり。
 この勇敢なる奮闘をながめ居たりし他の一人は、遂に鉄砲にて之を打ち倒したり。
 それと同時に十四五歳の少年槍を揮って手向ひ来りたれば、其奴を生け捕れ生け捕れと号令せしが、勢い鋭く突き廻り危険なれば又銃にて射殺したり。
 其の夜、或町家に泊り酒を求め大に飲み居たる最中に、或一人が先に殺したる少年の首を携え来り、大皿に之を載せ座の真中に、御肴持参と称して之を置き歌って曰く、

   愉快極まるこの夜の酒宴
          中にますらをの美少年

 と衆之に和して大に歌ひ大に飲み明かしたり。

 著者はこの老人及び少年に就き調査せしに、甲賀町口門番佐藤与左衛門と其の孫勝之助なりし。
 今朝、前藩相北原釆女、簗瀬三左衛門、高橋外記、山崎小助等城に入り、二公に謁す。
 この日の三左衛門は黒地に金泥を以て八幡大神の四大字を書したる陣羽織を着し、陣刀、副刀、及び短刀を佩びたり。
 釆女、外記、小助は三ノ丸の防備を監督す。三左衛門は始め太鼓門に在りしが後裏門を守る。裏門は小田山に面したる處に在りて、榴弾の爆裂最も激しく、死する者陸続絶えずと雖も、三左衛門はこの日以来胡床に倚り、泰然として平生に異ならざりき。 前藩相らの
入城

 越後より来りて我が藩士邸に宿営したる水戸兵二百余人は埋門に入り三ノ丸の東北隅を守る。
 我が公、水戸兵の将高田彦助をしてその兵二十余人を分ち西出丸を守らしむ。 水戸兵の入城

 西兵、田中大海邸、三宅仲三郎邸に潜匿して射撃すること雨の如し。
 辰の刻(午前八時)頃、西兵火を三宅邸に縦つ、焔煙熾んに揚る。
 辰の下刻(午前九時)頃、西軍甲賀町通上田邸前と大町通堀邸の轉角とに大砲を装置して、城の北追手を攻撃する。砲弾城北の楼櫓に中り、火薬大音響を発して爆裂し、柱壁を破砕し満城震撼す。 北追手門の
激戦  西軍遂に同門(甲賀町郭門)を突破し、勢いに乗じ甲賀町通りを驀進し、北出丸前桜馬場の小堤及び西郷頼母、内藤介右衛門邸の土塀に拠りて猛射す。
 又一方日新館方面よりも城門に薄りしが、城中の老幼これを見、追手門上より之を瞰射す。又砲を北出丸塁上に据えて之を撃つ。西軍ために逡巡す。
 諸士の黒金門に来り藩相梶原平馬に就いて建議する者、或は子女の進撃を請ふ者陸続相続く。
 山浦鉄四郎、馬に鞭ち城中を馳せ廻り各方面の形勢を報じて連絡を図る。
 會々飯田大次郎は入城し黒金門に来り二公に謁す。我が公命じて曰く、汝能く防戦の策を講じ且城内避難の老幼婦女の配置を為せよと。携ふる所の白纓采配の一片を取りて大次郎に賜ふ。
 大次郎感泣して之を拝載して任に就けり。 山浦鉄四郎

飯田大次郎  城中には近習・馬廻り・吏胥・其の他警鐘に依て入城せる老幼婦女子のみにして、一の隊伍を有せず。故にこれ等老幼婦女を各方面の城塁に配置して万一に備へ、負傷城中に在りし山浦鉄四郎等以下数名の壮士をして其の間を奔走警戒せしめ、又飯田大次郎をして三ノ丸の警戒に任じ、容保自ら采配の一片を切断して之に授く。
 西郷頼母は冬坂に在り、城下火の起るを望み馳せて城に入り、己の刻(午前十時)頃二公に黒金門に謁し、謹みて安全を賀し、且白うしけるは、今日の事は実に恐懼の至りに堪へずと。嗚咽して復た言ふ能はず。
 退きて平静に復し涙を拭ひ衆に向って曰く、余は既に事此に至るべきを察せり、頽勢を維持して今日に至りしは幸なり。この危急存亡の秋に当り、余等固より微力を尽さざるべからず。諸子亦奮励努力せよと。
 この時建議する者頗る多し。
 頼母平生と異なり、虚心坦懐を以て人言を容れ、全力を傾注して指揮宜しきを得たり。衆心大に安ず。 西郷頼母

入城  頼母、諸兵を指揮せんと欲し請うて笹山方面に向ふ。途にして西軍城下に殺到すと聞き、大に驚き直ちに背炙峠を越へ所謂韋駄天の如く馳せて城に入る。
 今日の事固より頼母の予期せし所なりと雖も、今尚城を保ち得しは幸なりとて感慨愈々深し。
 この時に方り城中混雑を極め、内外八方より黒金門に集まりて命を待つ。
 頼母、容保の側に在りて悉く之を処理す。天神口の部署其の一なり。
 暫くにして佐川官兵衛来り城に入る。ここに於て頼母は内政に、官兵衛は外防に従事するに決し、三ノ丸に出づ。衆心漸く定まる。 
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发表于 2011-5-18 21:26:36 | 显示全部楼层
日语盲求翻译
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发表于 2011-6-25 21:01:02 | 显示全部楼层
鬼子出过几个关于壬辰抗日援朝的兵棋。。。




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