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楼主: 龙骑兵队长

丰臣秀吉为什么没有统一全国

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发表于 2017-6-18 12:29:54 | 显示全部楼层
朔风 发表于 2017-6-18 09:58
我主要是站在读史者角度用刘邦,朱元璋,拿破仑等人的例子进行对比,这三人在兴师对外之前,基本把国内给 ...

另外对于秀吉来说征服中国只能是远期目标,在这之前必须先拿下朝鲜,就打下朝鲜而言,秀吉还是比较有实力的,打下朝鲜之后再如何侵入中国又是一回事了,秀吉没有正确预料的事情是明帝国将以多大的力度干预半岛事务。
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发表于 2017-6-19 00:34:15 | 显示全部楼层
abka_na_de 发表于 2017-6-18 12:19
秀吉对隔海的异国怎么保证得到准确的情报呢,或者说日本当时有没有获取这样情报的条件
人对不怎么了解的 ...

所谓小心使得万年船嘛,对付德川家康这种把中国式帝王术学成专业级别的政治家,丰臣秀吉必须比德川家康还要小心谨慎,避免出昏招。丰臣秀吉的崛起过程伴随着很多次冒险,他对风险的承受能力要远远高于德川家康等人,也使得破绽不少,而德川家康都看在眼里。两人的行事风格在早年小牧长久手交战时就能看出来了,羽柴秀吉冒险奇袭,被德川看破抓住破绽狠揍一顿。

当然还有一点是德川家康太能装,丰臣秀吉还有丰臣家一大批人可能一直相信他对丰臣家是忠诚的,这也给了丰臣秀吉“国内已经彻底平定”的错觉。

个人认为德川最精彩的发挥是关原之战前对诸大名的拉拢和对丰臣家势力的分化。丰臣秀吉刚统一日本的时候权力如日中天,此时任何有远见的政治家都会安心稳固内政,休养生息,而他非要在海外重燃战火,还是挑战明国这样的庞然大物。
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发表于 2017-6-19 00:55:51 | 显示全部楼层
本帖最后由 朔风 于 2017-6-19 00:57 编辑
abka_na_de 发表于 2017-6-18 12:29
另外对于秀吉来说征服中国只能是远期目标,在这之前必须先拿下朝鲜,就打下朝鲜而言,秀吉还是比较有实力 ...

应该说是唯一目标,他对出兵海外这一行动的称呼一直是“唐入り”,至于“朝鲜征伐”和“朝鲜出兵”则是江户时代乃至二战战后史学家总结战事时的称呼。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E ... 7%E3%81%AE%E5%BD%B9
豊臣政権時から江戸時代後期あたりまでは、この戦役が秀吉が明の征服を目指す途上の朝鮮半島で行われたものであるということから、「唐入り」や「唐御陣」と呼ばれたり、「高麗陣[注 12]」や「朝鮮陣」などの呼称が用いられていた[7]。秀吉自身は「唐入り」と称し、他の同時代のものとしては「大明へ御道座」[7]という表現もあった。
「朝鮮征伐」という表現も歴史的に頻繁に用いられてきた。これはすでに江戸初期の1659年(草稿成立は1644年頃[8])に刊行された堀杏庵(堀正意)『朝鮮征伐記』において見られた。この戦役を征伐とする立場は後述する倭乱の逆バージョンであるが、北条氏直を攻めた小田原征伐や島津義久を攻めた九州征伐などでも用いられており、朝鮮だからとことさら卑下して表現したわけではない[注 13]し、韓国では現在でも元寇を「麗蒙の日本征伐」と呼んでいる[9]。堀杏庵は、秀吉は民の苦しみを顧みずに戦役を行ったとして撫民仁政の思想から批判した[8]が、征伐そのものを否定したわけではなく、江戸期の絵本太閤記や明治期のその他の歴史書籍の多くにおいて、朝鮮征伐は単純に秀吉の武勇伝の一つと捉えられていた[7]。これは江戸中期の学者山鹿素行が提唱した朝鮮を日本の属国と定義した史観(中朝事実)[注 14]や、江戸後期の日本史研究を主導した水戸学者たちが秀吉が死去しなければ明も日本領になっていたとの考えが影響しており[7]、彼の野望は称賛されこそすれ、批判の対象ではなかったからである。明治初期に起こった征韓論に伴ってこの戦役も「征韓の役」などと呼ばれたこともあったが、これは島津綱久が万治年間(1658-60年)に編纂を命じた『征韓録』が先であり、幕末の水戸学者川口長孺なども『征韓偉略』(1831年)を著した。征韓は意味としては朝鮮征伐と同義である。しかし懲罰の意味合いのある「征伐」や「征韓」(または征明)の表現は日本では避けられるようになっている。
「朝鮮出兵」の呼称も早くからあり、ほぼ全ての国語辞典や辞書等に項目がある。戦後も昭和期には教科書で広く使われていたが、出兵の表現も次第に避けられるようになっている[注 15]。1960年代の世相を反映して、朝鮮出兵が海外侵略であったということが強く意識された結果、朝鮮社会が受けた被害にもより関心が持たれ、「朝鮮侵略」[注 16]が盛んに使われた時期もあり[7]、「大陸侵攻」などの表現も登場した。1980年代になると史学では多角的分析が主流になるが、1990年代になると日韓の文化交流が解禁されて韓国の書籍が翻訳されるなどし、後述の朝鮮での呼称も日本の書籍でみられるようになって、用語は多様化した。近年の日韓関係を反映して、教科書等の記述にはかなり変動があったわけであるが、現在は、第一次出兵を「文禄の役」として第二次出兵を「慶長の役」とし、併せて「文禄・慶長の役」とする呼称で定着している。また略称としては単に、前役、後役とも言う。

其他证据
しかしながら秀吉本人が海外進出の構想を抱いていたことを示す史料は、天正13年(1585年)以降のものに存在し、史学的には1585年が外征計画を抱いた初めであろうとされる[29]。関白就任直後の同年9月3日[注 33][34]、子飼いの直臣一柳市介(直盛の兄)の書状で「日本国ことは申すにおよばず、唐国まで仰せつけられ候心に候か」という記述がそれである[35]。

另外根据毛利家和锅岛家文书,丰臣秀吉征讨亚欧大陆不只是空想,有实际方案,而且目标还包括印度。
天正20年(1592年)6月、すでに朝鮮を併呑せんが勢いであったとき、毛利家文書および鍋島家文書には「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の卵を圧するが如くあるべきものなり。只に大明国のみにあらず、況やまた天竺南蛮もかくの如くあるべし」との秀吉の大気炎が残されている[44][35]が、それは誇大妄想などではなくて計画があったのである。

此外,以前我读《叶隐闻书》时,在锅岛家逸话那里也有一段记载,大意是丰臣秀吉会见群臣提出侵略中国乃至亚欧大陆的计划,众人皆默不作声(有反对之意),唯独小早川隆景站出来说“可行”,并在地图上就行兵布阵以及后勤给养等问题当场进行分析,得到了丰臣秀吉的认可与赏识。可见,丰臣秀吉只把朝鲜当作沿途障碍,目标仍然是侵明。
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发表于 2017-6-19 15:13:28 | 显示全部楼层
朔风 发表于 2017-6-19 00:34
所谓小心使得万年船嘛,对付德川家康这种把中国式帝王术学成专业级别的政治家,丰臣秀吉必须比德川家康还 ...

秀吉要稳固自己的政权就要安抚各大名,休养生息只能养好了平民,对于自身政权是没有助益的。
安抚大名的方式就是对外扩张,以军功来奖励他们。日本扩张的方向只能是朝鲜,然后进入大陆。
当然他要是早知道会朝鲜都拿不下来那也不会出兵了
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发表于 2017-6-20 14:45:42 | 显示全部楼层
朔风 发表于 2017-6-18 09:58
我主要是站在读史者角度用刘邦,朱元璋,拿破仑等人的例子进行对比,这三人在兴师对外之前,基本把国内给 ...

事实上,秀吉更多的是作为一个封建领主联盟的盟主。只要向其归顺,立刻可以封疆裂土(如毛利氏、岛津氏)。而负隅顽抗的,则彻底消灭(如北条氏)
五大老中,实力最强的德川家康对丰臣政权若即若离,表面降服,骨子里小算盘拨的快。秀吉不是不懂,所以安排了宇喜多+前田来制衡德川,而且在背后安插了上杉氏。
而且征伐大陆的时候,德川是代主帅,可能秀吉暗地里觉得家康渡海之后,生还回来的可能性不是很高。
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发表于 2017-6-22 07:02:20 | 显示全部楼层
abka_na_de 发表于 2017-6-19 15:13
秀吉要稳固自己的政权就要安抚各大名,休养生息只能养好了平民,对于自身政权是没有助益的。
安抚大名的 ...

就算丰臣不侵朝,忠于他的大名也不会对他有任何不满,不忠于他的大名(如德川)也不会因为他侵朝而得到“安抚”。事实上他提出侵略明国的主张时,大部分大名都感到很意外而且并没有什么支持者。他最应该做的是稳固自己的统治,培养出合适的接班人,争取活得比家康更久或者至少在死前把德川势力削弱一下。

至于“早知道会”,恐怕除了丰臣,当时日本没几个人不知道侵略明国这个庞然大物是毫无胜算的。
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发表于 2017-6-22 07:14:22 | 显示全部楼层
ViveI'empereur 发表于 2017-6-20 14:45
事实上,秀吉更多的是作为一个封建领主联盟的盟主。只要向其归顺,立刻可以封疆裂土(如毛利氏、岛津氏) ...

德川家康政治上非常老辣。宇喜多和前田等人再忠心也是异姓诸侯,丰臣秀吉缺乏一个有足够能力的继承人。上杉参加西军更多是出于自己的利益考量,倒不是因为对丰臣家多忠心,岛津和毛利同理。结果大战来临,这些异姓诸侯大多都指望不上,尽管上杉比起“用膳”的毛利和一言不合就反水的岛津更靠谱一点。
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发表于 2017-6-22 08:18:26 | 显示全部楼层
本帖最后由 abka_na_de 于 2017-6-22 08:24 编辑
朔风 发表于 2017-6-22 07:02
就算丰臣不侵朝,忠于他的大名也不会对他有任何不满,不忠于他的大名(如德川)也不会因为他侵朝而得到“ ...

秀吉的属下的不满是一定的,他们支持秀吉东征西讨到最后只灭了北条一家,其他强力大名都活的好好的,好处基本没捞到,秀吉搞太阁检地和藏入地肥了自己却损害了诸大名的权益,得罪了他们,要指望这些人支持秀吉的继承人,就要拿出丰臣自家领地或藏入地去分封,而这同时也削弱丰臣家的势力,从另一个方面使得统治变得不可能。
家康不犯错误秀吉是没有削弱家康的机会的,强行搞事会被家康联手其他大名推翻。如果秀吉对自家人还是历史上的态度的话,即使不侵朝,他死后天下也不会是丰臣家的,只不过德川机会没那么大,日本会重回战国乱世而已。
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发表于 2017-6-22 08:31:43 | 显示全部楼层
可以不对外扩张就建立稳固统治的就是织田和德川,前者是以武服人为主导夺取天下霸权,诸大名都心服口服;后者是建立在秀吉死后矛盾释放势力彻底重新洗牌的结果的基础上。
秀吉不具备这个条件,他的后继者一旦犯错就会完蛋。
秀吉担心这个,结果搞成了他的后继者不需要犯错就会完蛋的局面。
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发表于 2017-6-22 08:39:05 | 显示全部楼层
说起来北海道也是一个扩张方向,但是这个地方历来不受重视,日本对外扩张都是向朝鲜方向去的没有对北海道侵略的,应该是人口太少的缘故
南方的小岛链也没法满足胃口
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